| 小沢一郎武勇伝 | 2007-11-01 |
シリーズ小沢 一郎
〜第十自自公連立、連立離脱、
自由党分裂 〜
まずは、おことわりから国民のために国政に精をつくている代議士ですが、恐縮ですが名指しとさせて頂きます。
今日期限切れとなる「テロ特措法」首相と民主党の小沢代表との党首会談の中で「テロ新特措法」の話を中心に会談が行われたが、与野党からは密室会談と批判されまた、「テロ新特措法」は 平行線で終わり次の会談(11月2日金曜日)に持ち越された。
小沢 一郎(小澤一郎)プロフィール
| 生年月日 | 1942年5月24日(65歳) |
|---|---|
| 出生地 | 出生地・東京市下谷区(現:東京都台東区)
本籍地・岩手県水沢市(現:奥州市水沢区) |
| 出身校 | 慶應義塾大学
日本大学大学院(中退) |
| 学位・資格 | 経済学士 |
| 前職 | 大学院生 |
| 所属委員会
内閣役職 | 衆・国家基本政策委員会委員 |
| 世襲 | 2世
父・小沢佐重喜(衆議院議員) |
| 選出選挙区 | 岩手4区 |
| 当選回数 | 13回 |
| 所属党派 | 民主党(小沢グループ) |
| 党役職 | 党本部代表
次の内閣・内閣総理大臣 岩手県総支部連合会最高顧問 |
| 会館部屋番号 | 衆・第1議員会館605号室 |
自自公連立、連立離脱、自由党分裂
1999年7月、公明党が政権に参画し、自自公連立政権が成立する。自民、公明両党で参院の過半数を抑えることになったため政権内部での自由党の存在感は低下していった。自自両党の選挙協力も遅々として進まず、小沢は自民党総裁の小渕総理大臣に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求した。両者は2000年4月1日、会談するが、合意に達せず、結局連立を解消することになる。この直後、小渕は脳梗塞で倒れた。
自由党は、小沢を支持する連立離脱派と野田毅、二階俊博などの連立残留派に分裂し、残留派は保守党を結成する(分裂の結果、自由党は衆院議員18名、参院議員4名の計22名に半減、保守党には26名が参加)。小沢と袂を分かった保守党側は政党助成金を半分づつ分け合うために分党を要求したが、自由党側はこれを拒否。保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることとなった。
2000年6月25日の分裂直後に行われた第42回衆院選では苦戦が予想されたが、小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、現有議席を上回る22議席を獲得し善戦する。 このとき、約20億円を投じたとされるテレビCM(小沢が顔を殴られる)は話題になり、自由党が善戦した要因の一つとされる(一方、保守党は7議席へと激減)。
2001年1月、将来の指導者育成を目指し、党内に小沢一郎政治塾(小沢塾)を開設した。小沢塾は民主党との合併後、小沢個人の私塾として運営されている。
同年7月29日の第19回参院選では小泉人気により、自民に追い風が吹き、小沢王国と呼ばれる参院岩手選挙区でも大苦戦を強いられたが、なんとか僅差で勝利し面目を保った。しかし、議席数は前回と同じ6を維持したものの、自由党の比例代表は約420万票に止まった。
参考資料【ウィキペデア】
小沢は自民党を離党して1993年6月23日新生党を結党し、小沢は、総選挙直後から日本新党代表の細川護煕と非公式に会談し、細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民勢力へと変わる。
このときから小沢と自民党の戦いが始まった。
自民党を与党から野党に下党へ追い込んだ小沢だが。。。
8月9日、8党派連立の細川内閣が成立した。
小沢は細川政権下、内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党書記長の市川雄一とともに政権の主導権を握ろうとし、内閣官房長官として官邸主導を狙うさきがけ代表の武村と激しく対立した。
ここで新生党とさきがけの主導権をめぐる対立が勃発したままの細川政権であった。
その中で1994年2月3日 未明、細川は突然消費税を廃止して福祉目的の税「国民福祉税」7%引き上げの構想を打ち出し、これは小沢と大蔵省事務次官の斎藤次郎を中心に決定したことであったが、世論の激しい反発にあい、さらに社会、さきがけ、民社各党の批判に合い、翌日、細川は国民福祉税構想を白紙撤回するに至り、小沢の「剛腕」というか「傲慢」的な政治手段にょり武村官房長官(当時)は、公然と「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言し、小沢との対立はますます激化し、小沢は細川に武村を外すための内閣改造を要望をだし、泥沼化する与党の一連の動きに嫌気がさした細川は、4月に突然辞意を表明した。
小沢には突然の事であったが、直ちに後継首班に向けて始動する。
連立与党は羽田の後継首班に合意するがしかし、首班指名に先立ち1994年4月25日、新生党、日本新党、民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、4月26日、社会党は連立政権の離脱を発表する。
8党連立政権は崩れ始める。
これは小沢自身の自滅のようにも思える。
羽田内閣は少数与党内閣として成立したが、おなじ時期の小沢と羽田に陰りがみえはじめた。
少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党によって内閣不信任案が衆院に提出された。
当初は羽田も解散する腹で小沢も同調していたが周囲の声を聞くに至りトーンは下がり解散総選挙を断念し、6月25日に内閣総辞職を選択し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。
小沢はこのような連立政権をまとめることができず、不安定な政権運営をしていた。
小沢は自民党から海部俊樹元首相を引き抜きポスト羽田を狙うが、野党になつた自民党は首班指名選挙で社会党委員長の村山富市に投票をし、村山に敗れ小沢は政治家人生において初めて下党し野党へと落ちことになった。
1994年6月29日、自民党は首班指名選挙で社会党委員長の村山富市に投票する方針を示したため、海部は自民党を離党し、「自由改革連合」を結成、連立与党の首班候補となる。しかし決選投票で261対214で村山に敗れ、小沢は政治家人生において初めて野党の立場に落ちることになる。
建て直しを図ろうとする野党は新・新党の結成にむけ小沢を必要だった。
新進党が結党されるが、党内に小沢に対する反発が強まり離党者が続出するなか羽田、細川たちは、新進党を離党し太陽党を結成する。
また新進党を公明も離党する。
新生党内では小沢の責任を追及する声も出たが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するために、小沢の豪腕が必要とされ、小沢を中心に新・新党結成が準備され、同年12月10日に新進党結成大会が行われた。小沢は党首に海部を擁立し、自らは党幹事長に就任する。
1995年12月に行われた党首選挙では、羽田・細川(彼らは小沢が後ろだてした内閣で小沢のやり方を十分しっていいる)らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突その結果、小沢は羽田を破り、第2代党首に選出されたが しかし、この党首選挙直後に投票者名簿が破棄されるなど、選挙結果が不明瞭であったため、羽田との決裂は決定的なものとなり、党内に更なる亀裂を生じさせた。
1996年10月20日に第41回衆院選が行われ、新進党は小沢の党党首選での主張を党公約「国民との五つの契約」として消費税率の3%据え置き、18兆円減税を公約したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席に止まり、事実上敗北した。
総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。
羽田孜や細川護熙らは非主流派を構成し、 1996年12月26日、羽田、奥田敬和、岩国哲人ら衆参議員13名は新進党を離党、太陽党を結成する。
1997年、小沢は自民党(当時)の亀井静香らと提携する、いわゆる「保保連合」路線に大きく舵を切る。しかし新進党内には、こうした保保連合路線に対して二大政党制を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、鹿野道彦は政策研究会「改革会議」を結成する。
12月18日の党首選挙で小沢は鹿野を破り再選された。この党首選に先立ち公明が次期参院選を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速する。党首に再選された小沢は、純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求。12月27日に小沢は旧公明党の参院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の分党と新党の結成を発表した。新進党内は蜂の巣の巣をつついたような混乱に陥り、分党を決定した両院議員総会は、混沌の内に終わった。
1998年1月6日、自由党を結成、小沢は党首に就任する。当初、100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆院議員42名、参院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を民主党に譲り渡した。
1998年7月12日の第18回参院選では苦戦必至と思われていたが小沢人気もあり比例代表で514万票、合計6議席を獲得し善戦したが参院選後の臨時国会では、首班指名に民主党代表の菅直人を野党統一候補に臨み、参院では自民党の小渕恵三を抑え菅が指名された(衆院では小渕が指名されたため、衆議院の優越の原則から小渕が首相に就任した)。 小沢は参院での野党共闘により政府・自民党を追い込む戦略であったが、菅は「政局にしない」と発言、金融再生法の制定で自民党と協力したことにより野党共闘はほころびを見せた。
いまのねじれ国会がこにときのもあったが、当時の民主党代表官代表は自民党と協力することにょり小沢の目論見の共闘体制が崩れることにより、1998年10月、小沢は内閣官房長官の野中広務と会談、連立交渉を開始する。
そして紆余曲折を経て同年11月19日、小渕首相との間で自自連立政権について合意した。
福田総理は小沢民主党代表と去る10月30日党首会談をおこなったが、小渕元総理のときのような小沢との連立を図ろうとしているのだろうか?
だが、「テロ特措法」については平行線です。
1999年1月14日正式に自自連立政権が成立し、党幹事長の野田毅が自治大臣として入閣、小沢は5年ぶりに与党へ復帰する。衆議院議員定数50削減、閣僚ポストの削減、および政府委員制度の廃止と党首討論設置を含む国会改革がこの連立の主な成果として挙げられる。
1999年7月、公明党が政権に参画し、自自公連立政権が成立する。自民、公明両党で参院の過半数を抑えることになったため政権内部での自由党の存在感は低下していった。自自両党の選挙協力も遅々として進まず、小沢は自民党総裁の小渕総理大臣に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求した。両者は2000年4月1日、会談するが、合意に達せず、結局連立を解消することになる。この直後、小渕は脳梗塞で倒れた。
自由党は、小沢を支持する連立離脱派と野田毅、二階俊博などの連立残留派に分裂し、残留派は保守党を結成する。
小沢と袂を分かった保守党側は政党助成金を半分づつ分け合うために分党を要求したが、自由党側はこれを拒否。保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることとなった。
2000年6月25日の分裂直後に行われた第42回衆院選では苦戦が予想されたが、小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、現有議席を上回る22議席を獲得し善戦する。 このとき、約20億円を投じたとされるテレビCM(小沢が顔を殴られる)は話題になり、自由党が善戦した要因の一つとされる。
2001年7月29日の第19回参院選では小泉人気により、自民に追い風が吹き、小沢王国と呼ばれる参院岩手選挙区でも大苦戦を強いられたが、なんとか僅差で勝利し面目を保った。
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